卒業論文作成メモ
卒業論文作成にあたり、参考文献の読書記録及びメモとして作成した。 卒論テーマは「体育会系人間の論理と行動様式」の予定。
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帝国陸軍の「兵隊社会」
帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」といわれ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。
兵の階級は上から兵長・上等兵・一等兵・二等兵である。私的制裁というと「兵長が一等兵をぶん撲る」ようにきこえるが、実際はそうではなく、二年兵の兵長は三年兵の一等兵に絶対に頭があがらない。従って日本軍の組織は、外面的には階級だが、内面的な自然発生的秩序はあくまでも年次であって、これが階級と混ざり合い、両者が結合した独特の秩序になっていた。
そしてその秩序の基礎は前述の「人脈的結合」すなわち“同年兵同士の和と団結”という人脈による一枚岩的結束と、次にそれを維持する暴力である。(P289)

虚構の階級組織が消失し、収容所で自然発生的な秩序がでてきたときには、その実情がむき出しになり、人脈・金脈・暴力の秩序になった。
(P290)

私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。(P291)

なぜか。なぜそうなるのか。(中略)軍制史の教官だったというA大佐は日本軍創設時に原因があるといった。そのころは血縁・地縁を基礎とする自然発生的な村落共同体が厳存していたころで、その中の若衆制度という、青年期の年次的「組」制度が輸入の軍隊組織と結合し、若衆三年兵組、二年兵組、初年兵組という形になり、その実質には結局手がつけられなかった。その上陸軍は自然発生的な村の秩序しか知らず、組織をつくって秩序を立てるという意識がない。(中略)従って軍人勅諭には組織論はもとより組織という概念そのものがなく、「礼儀を正しくすべし」の「礼」だけが秩序の根本だった。だから外面的な礼儀の秩序が虚礼となって宙に浮くと、暴力とそれに基づく心理的圧迫だけの秩序になってしまった。(P293)
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員数主義
軍人勅諭には(中略)書かれざる第6条があり、それは「一、軍人は員数を尊ぶべし」というのが「六条の教えの意味である」これは、軍隊に対する最も痛烈な皮肉の一つであったろう。(中略)「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである。(中略)外面的に辻褄があっていればよく、それを合わすための手段は問わないし、その内実が「無」すなわち廃品による数合わせであってもよいということである。(P127~129)

「形式化した軍隊では『実質よりも員数、員数さえあればあとはどうでも』という思想は上下を通じ徹底していた。(P131)

その基本にあるものの一つは、事大主義とともに前述の「目前の仲間うちの摩擦」を避けることを第一義とする精神状態であろう。(P143)

その結果、あらゆる組織は無意味・無目的の自転をはじめ、その“自転”が無意味でないことを自己に納得させるため、虚構の世界に入ってしまう。そしてそれが虚構でないように見せる演技が「気隗誇示」であり、そのため「事実」を口にした者はには「気隗」を持ち出して徹底的な罵言讒謗を加えて、その口を封じる以外に方法がなくなる。(P159)

その虚構を外部に対して支えているものが、「仲間内の摩擦を避ける」がさらに外部へ発展した形の「仲間ぼめ」という詐術だったことである。陸軍くらい、徹底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部では派閥闘争、集団間の学歴差別と、あらゆる足の引っ張りあいをしていてもひとたび「外部」となれば、徹底した「仲間ぼめ」である。(P167)

帝国陸軍には、客観的な「法」が存在するという意識も、将官であれ二等兵であれ、法に基づく「法的秩序」に等しく従うべきだという考え方も皆無であった。(P269)
一下級将校の見た帝国陸軍
秦郁彦氏が第2次大戦のさまざまな謎をあげておられるが、その中に(中略)「陸軍は最後の最後まで学生を信頼せず、それを戦力として活用しようとはしなかった」ことがある。(中略)「インテリは兵隊に向かない」は、軍だけでなく、いわば全国民共通の認識で、日華事変の頃朝日新聞に「インテリ兵士は果たして弱いか?」といったテーマの記事がある。(中略)こういう記事が出ること自体、「インテリは兵士に向かず、学生は軍人に適さない」という常識があった証拠であろう。軍は最後の最後まで、学生を信用していなかった。しかし、延び切った戦線、消耗率の高い下級幹部の補充等等で、背に腹は代えられぬ状態になったのが昭和十七年だったのである。(P21)

訓練の原則は「馬を調教する」のと全く同じで、説明抜きで個々の実習を積み上げる方式であった。「当時の教育水準では兵隊を訓練するのに、それ以外に方法がない」という意見は、明治中期までは一理あったかもしれぬ。だが日本の教育水準はぐんぐん上昇しているのに、彼らはそれを無視し、それを自己の教育に活用しようとはしなかった(P25)

学生をあれほど信用しなかった軍が、実は学歴偏重主義で、幹部候補生の選抜基準は一に学歴なのである。
なぜこのような方式がとられたのか。その原因は戦場で最も多く消耗するのは下級将校、特に小隊長クラスだということである。階級別戦死比率を調べると、中国戦線では特に、下級将校の戦死率が非常に高い。下級指揮官を射殺して指揮の末端を混乱させるのは確かに有効な方法であり、従って狙撃の格好の標的となったためと思われる。
これへの有効な補充は、士官学校の卒業生を待っていては追いつかないし、また、将来の軍の幹部として養成したものが中・少尉で消耗しては、中堅幹部がなくなってしまう、という配慮もあったであろう。
(中略)だがそれは「学歴を基準とする選抜方式」を正当化はしない。
(P40)

私には連隊のすべてが、戦争に対処するよりも「組織自体の日常的必然」といったもので無目的に“自転”しているように見えた。
事実、この膨大な七十年近い歴史を持つ組織は、すべてが定型化されて固定し、牢固としてそれ自体で完結しており、あらゆることが規則ずくめで超保守的、それが無目標で機械的に日々の自転を繰り返し、それによって生ずる枠にはめられた日常の作業と生活の循環は、誰にも手がつけられないように見えた(P41~42)


日本人と暴力ー「帝国日本陸軍」より
封建制日本には壮士と浪人があった。壮士は、値段をつけたものに買われる、自由契約の暴力ブローカーであった。政治運動ではなばなしい役割を演じてきた。

「この暴力の伝統に、以下に要約する、日本人の心理の特性を加えなければならない。たとえ、あからさまな現行法無視でさえ、暗殺、叛乱でさえ、国家のため、あるいはよりいっそう直截に天皇の名における行為であれば、日本では強力な論理的正当性が与えられる」(P174)
帝国陸軍の家族制度
日本陸軍内では、将校と兵士との間に親密な関係がある。おそらくそれを家族感情と呼べるだろう。日本人はそれを戦友意識と
称する。兵士たちは将校宅を気兼ねなしに全く個人的に訪れ、将校は団結心を高める手段として兵士と酒を酌み交わすのである。(中略)その指揮下にある兵士に対する兄として、将校が認められている関係の中で、家族制度が兵営に普及しているのだ。
日本陸軍での兵士と将校とのこの絆は、ある程度まで、下層中産階級の出身が多い将校グループが当然に持っている兵士への同情に求めることができよう。(P84~85)


日本の社会構造の支柱をなしているものの基礎は、個々の人間が常により大きなグループの意志に従うとする家族制度である。この家族グループ内では投票は行なわれない。会合が持たれ、意見が出される。合意が得られるまで妥協が図られる。(中略)国民が緊密に輸入されている家族的・社会的・政治的生活のなかで、違いを解決する方策としての妥協の哲学を彼らは学習しているのである。

年長者とか別格者が特権を持っている家族会議と同様に、協議と妥協のこの政府にあっては、決定は、各構成員の発言力が同等の比重を持つものではなく、特権者によって大きな配慮がなされるものである。日本の帝国陸軍はこのカテゴリーに属する。とりわけ、戦時にはこのことがあてはまる。(P124~125)






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