卒業論文作成メモ
卒業論文作成にあたり、参考文献の読書記録及びメモとして作成した。 卒論テーマは「体育会系人間の論理と行動様式」の予定。
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「体育会系の学生は企業人として必ず伸びる」
11月6日に全日本大学駅伝が行われた。3年生、4年生の選手も目立つ。この時期まで休まず練習を続け、母校の名を背にして大会に出るとなると、就職活動をする時間はほとんどないだろう。

 剣持さんは、こういうアスリートや体育会系学生の就職活動を支援する会社を運営している。

 「体育会系と聞くと、体力とか根性を強くイメージされるかもしれませんが、実際にスポーツを続けている選手やマネジャーは『勝つ』という目的を達成するために、組織で継続して活動しています。これは企業活動と同様なんですね。

 そういう意味では、体育会系の学生は企業の力になる素養をすでに持っているのです」

 しかし、現状の就職活動時期のピークである3年生から4年生にかかる春には、合宿や試合が目白押しの状態だという。他の学生はこの頃から就職活動に本腰を入れ始め、数十社にも応募するのに。

 そこで剣持さんは、体育会系の学生にもできる限りのチャンスを与えたいと、独自の就職支援策を作り上げた。

 「多忙な体育会系学生の平均面接社数は5社程度。総平均の5分の1以下です。でも就職活動の機会が少ないなら、その中で自分を表現できる武器の作り方がある。私はそれをアドバイスしたい。体育会系の学生は粘り強いし、挑戦する意欲も、目標達成の意識も非常に高い。今までやってきたこととシンクロさせていけば、その武器を使いこなすことは比較的容易だと思いますね」

 体を大きく動かし、身ぶりも声も勢いがいい。自身もスポーツが好きでたまらないというエネルギーを放つ。世の中の就職活動、それはそれ。大丈夫、私たちには私たちなりの力とやり方があると訴えてくる。

 剣持さんは、この体育会系の力を新しい価値観、産業と位置づける。そしてその存在が社会の大きな波となって拡大していくことをめざしている。現在の体育会系学生の比率は全体の7%。だが企業人のパワーに換算すると比重はもっと高いのかもしれない。

(アサヒ・コム 就職・転職ヒューマントーク 2005年11月14日 インダス(株)代表取締役 剣持和明氏インタビュー)
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リクルートエージェントHPより
会社の風土をあらわす際、「体育会系」という言葉がよく使われるが、実際には同じ体育会でもそれぞれ特徴があるものである。
メジャースポーツとマイナースポーツでは部の雰囲気が違うことがあるし、バスケのような屋内スポーツとヨットなどの自然を相手にするスポーツ、あるいは柔道・剣道といった伝統を重んじるものと、ラクロスなどの新しいスポーツの風土の違いもあるのではないだろうか。

Sさん(25歳)はとても人当たりのよく、笑顔が印象的なメーカー営業経験者。彼の転職動機は「もう、営業はやりたくない」というものだった。

「会社の体育会系のノリについていけなんです。自分はそういうのはどうも苦手で…」と、Sさんは頭を掻いた。
ただ、「体育会系のノリは合わない」と言いながら、彼自身はスポーツが大好きで、週末はジムにいって体を動かすのがストレス解消法だという。活動的な様子は見た目からも感じられ、人を惹きつける話し方ができるSさんは、我々の目に、いかにも営業適性のありそうなタイプに映った。

「たとえば、体育会系の雰囲気がない会社の営業ならどうですか? Sさんならやっていけると思うのですが…」と、いくつか具体的な求人をみてもらうと、Sさんは「相性がよければ…」と、応募に同意してくれた。

我々がピックアップしたのは、実際に入社した人などの話から「和気あいあいとした雰囲気がある」という評判の会社ばかり。書類選考を通過して面接となった企業の多くは、Sさんに良い評価を出してくれたが、肝心のSさんからは次に進みたいという連絡がひとつもなかった。

「どこも自分には合わないような感じがします」
「そうですか…。アットホームな社風だと聞いていたところばかりだったのですが…」
するとSさんはそこで「あ!」と声をあげた。「僕が苦手だと言ったのは、そういうところを含んでいるかもしれません。みんなで一緒に頑張ろうとか、体育会系ってそういうところ、あるじゃないですか」「Sさんは学生時代…」我々が言いかけると、Sさんは質問の内容を察して答えてくれた。
「学生時代は陸上部でした。連携第一ではなく、自分がサボれば、自分の記録が伸びないだけ。逆も同じ。そういう環境のほうが、自分には向いているのだと思います」

スポーツの分類のひとつには、個人競技かチームプレイかというものがある。Sさんにとっては、営業は気合いだなんだと叱咤されるのと同程度に、みんなで業績をあげる、出来なければ連帯責任という風土が、『体育会系』的なものだったのだ。

結局、Sさんは若手営業の人はあまり行きたがらない、直行直帰が多く、自己管理力が求められるA社に転職することとなった。入社後しばらくして、Sさんは我々にお礼の連絡をくれた。
「仕事上のアドバイスが欲しい時は、聞けば親切に教えてくれますが、そうでないときは自分のペースで仕事が進められます。なにより、マネージャーとの関係が常に一対一で、他人との比較で良い悪いではなく、僕が成長しているかどうかでみてくれるのがありがたいですね」
なんとも個人競技出身者らしい感想ではないか。

自分にあった仕事・職場はどんなところだろうと悩んだ時、自分にもっとも向いている(向いていた)スポーツを考えてみるというのは、ひとつの方法なのかもしれない。


体育会系と文化系④
これまでの議論では、「ダウナー系→アッパー系」に関する話題を扱ったが、今度はその逆パターンの場合を考えてみよう。

本稿では、ダウナー、アッパーの分類を映像作品に対する嗜好から行ってきた。すなわち、「ダウナー系=アニメ」、「アッパー系=秘宝系」という単純な図式である。この分類はゲームに対する嗜好からも行うことができる。「ダウナー系=ギャルゲー」、「アッパー系=格闘、シューティング」という分け方だ。そして、この論法を用いれば、アッパー系からダウナー系への移行は、格闘ゲーからギャルゲーへの嗜好変化を伴うと考えることができる。たとえば、『こち亀』の左近寺竜之介がそれで、硬派な格闘ゲームの鬼がギャルーゲーにはまってしまい、やがて人格を崩壊させていくエピソードか語られた。

もちろん、これはゲームだけに当てはまる話ではない。軟派アニメを鼻で笑っていたミリタリー・ファンが、ある日、『CCさくら』に狂ったり、『エヴァ』は哲学だと咆哮を始めたり、「観鈴ち~~ん、ゴールしちゃだめだめ」と、泣き喚き始めるたりすることも大いにあり得ると思われる。人生は危険で一杯だ。


さて、数日間に渡って検討してきた「体育会系と文化系・概論」であるが、ここでまとめに入ろう。

本稿は、とくに後半において、相対立するにもかかわらず、アッパー・ダウナー間の系移行が起こりうることを指摘してきた。これは、最初に触れたように、そもそもの文化系、体育会系の分類が具体的な身体能力に根ざしていた事と関連していると思う。どういうことかというと、最後の苦行とも言うべき高校生活が終わり、保健体育という科目が生活から払拭されると、運動能力で人を評価する場面が劇的に減少し、世界がまるで違ったもののように見えてくるのだ。そこは、体育会系と文化系の分類がすでに無効となった地平である。ゆえに、体育会系への温度差でカテゴライズされたアッパー・ダウナーの分類も枠が弛み、系移行を促進するものと思われる。それは、世界と和解しつつある過程と言ってもよいだろう。
体育会系と文化系③
文化系人間の思惟構造を考察する際に注目されることは、彼らが次のふたつのタイプに分類され得ることである。アッパー系とダウナー系である。

アッパー系:文化系でありながら、体育会系にあこがれを持つ人々のことである。ブルース・リーを師父とあがめる。愛読雑誌は『映画秘宝』。

ダウナー系:体育会系への憎しみは彼の内面で濃縮され、それはやがて世界全体に対するルサンチマン的な感情へと昇華される。他虐と自虐の狭間の中で、彼は思春期的なふらふら内面感をいつまでも抱きつづけるだろう。アニメ、ギャルゲー、ライトノベル…。

アッパー系はジージャンズと同義であり、ダウナー系はおたくと同義であると本稿では考える。『巨人の星』を読んで泣くのがアッパー系であり、笑ってしまうのがダウナー系であると考えてもよい。それではなぜ、こんな分離が文化系の中で起こったのであろうか。

ありきたりな空想ではあるが、彼らが、体育会系というエイリアンと幸福な出会い方を出来たかどうかが、その後の行く末のひとつを決めているような気がする。運動の出来る友だちは、彼を蔑視しなかったか? 体育教師の人格的資質はどうだったのか? 抽象的に言えば、世界の優しさの度合いの問題である。

同じ文化系でありながら、アッパー系とダウナー系は互いに仲が悪い。近親憎悪と言うべきものである。しかし、しょせんは同じ根っこでつながっている。ダウナー系がアッパー系へと移行する瞬間があるのだ。たとえば、「起点→転換点→終点」というハリウッド映画の基本的な構成にあって、転換点における主人公の動機変化が、時として「ダウナー系→アッパー系」という移行になっていることがある。

ちなみに、ダウナー系やアッパー系が体育会系に移行することは、いちおう論理的にあり得ない。精神的な壁は乗り越えられても、体がそれに追いつかない。しょせんブルース・リーには誰もなれないのだ。


ハリウッド映画では、ダウナー系よりもアッパー系の人間の方が重宝され、「ダウナー系→アッパー系」という移行現象が散見される。たとえば、『マトリックス』や『ファイト・クラブ』を挙げてよい。ダウナー人間はその過剰な妄想によって、アッパーな世界へと到達するのだ。逆にいえば、それはあくまで妄想の中だけのことで、したがって、物理的な実体の伴った体育会系への移行ではない。

娯楽性が追求されるハリウッド映画において、アッパー系が志向されるのは、それなりに理解されやすい話で、直感的に言えば、誰もダウナー系人間の暗い愚痴など聞きたいとは思わないだろうし、また、幅広いユーザーの喚起を促すという点でも、人格がダウナーとアッパーを結果的に併せ持つ語り方が、好まれるだろう。しかし、和製アニメの世界では、ダウナー系人間に焦点が当てられる場合が多い。日本製アニメに特有の陰気な雰囲気は、このことがもとになっていると考えられる。そして、ダウナー系への愛着は、やがてかっこいいものとしてのダウナー系という価値観を提示することになる。サブカルの魔の手が忍び寄ってくるのである。
体育会系と文化系②
運動ができるか否かで、徹底した待遇の差を被ることになる幼年時代。それは幼き精神にとってあまりにも過酷な経験である。特に、運動神経に問題のある人々は、多種多様の哀感を抱くことになるだろう。それはあまりの鈍足さに対する嘲笑であったかもしれないし、集団競技の中での悪性突出に対するあからさまな批判であったかもしれない。

いずれにせよ、このような陰気な青春時代を送らざるを得なかった人々は、ある種の歪んだ人格を形成することになる。文化系人間の誕生である。




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