卒業論文作成メモ
卒業論文作成にあたり、参考文献の読書記録及びメモとして作成した。 卒論テーマは「体育会系人間の論理と行動様式」の予定。
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殴り書き③世間とは?
世間とは「社会」という意味ではなく単に「外(よそ)」のことで、「よそ者」というような意味でもあった。
世間という言葉は現代でもしばしば否定的な意味で使われることがある。
「世間の目を気にするな」だとかそういう意味で。
世間は「社会」という意味ではなく、外とか他とかいうような意味。
一つの共同体の外部を指す言葉。世間師は共同体に属さない人。

江戸時代はメディアもなくて、各藩にお国柄というものもあったし
使ってる言葉もかなり違っただろうから、統一的な常識みたいなのがなかったんだろうね。
ほとんどの人は自分の村以外のことは知らずに人生を終える。そして
世間師みたいな特殊な人たちだけが他所のことをいろいろしってると。

明治以降の富国政策から段々と日本人は統一的な価値観を共有するようになってし
まって、多数派が共有してる価値観からずれてる人のことを、言語の意味の変容も
あいまって「世間知らず」と馬鹿にするようになったんじゃないかな。
今はサラリーマンが多数派だから彼らの価値観が正当な社会常識だと言ったりすることになる。

営業・事務系サラリーマンは、普段、自営業者や製造業現場労働者の存在ことをあまり意識していないように思える。
就職する=営業・事務系サラリーマンになる という観念を当然のものとして生きてきたため、それ以外の労働者の世界は余り想像に登らない。
同じ勤め人同士でも、営業・事務系サラリーマンは、研究開発、製造現場、流通(輸送)現場の人たちに対しては、仲間意識がかなり薄い。
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殴り書き②「会社化」「社会化」?
現代においては、新卒就職活動→新人研修→会社組織配属 というルートのみが「社会人化」される唯一の方策であるかのように思い込まされるようになっている。
このルートから外れたもの:家業ををそのまま継いだり、自営業を立ち上げたり、大学院に進学したりした人間は「社会人化」されていないとみなされるようになった。
主としてサラリーマンの側から。


企業研究をする、セミナー等に参加する、OB訪問をする→エントリーシートや履歴書を書く→何段にもわたる面接に望む→入社→研修という経験でのみ「社会人化される」という考えは強固だ。

これらの「儀式」を経たものは、「儀式」の経験のない人間に対して”隔意”や”優越感”を感じるようになってしまう。

殴り書き①いわゆる「社会」についてー「会社化」「社会化」?
学校、会社、病院。
現代人はこの三つの中間集団のいずれかにしか通うことを動機づけされる。
会社か学校に行かない者は病院に行くことが行動上条件づけられることになる。
このトライアングからはみ出す者は社会人以前の想定外の存在とされる。

主婦は例外だが、しかしその地位は社会的に従属的なものと見なされる。
そのことは同時に、家族集団が社会的に従属的な集団になったことを物語っている。
フェミニストが女の社会進出の権利を主張するのには時代の必然性がある。
家庭から上記の三つの中間集団が産業的に分化することによってそれは始まったのである。


正しく言うと、その三つのなかで会社のみが正規の「社会」とされている。
学校に所属する学生は「社会」人以前、病人が退院するときは「社会」復帰とされる。
会社に通わない者は、学生か病人(患者)である必要がある。
会社人間以前の者の収容を義務付けているのは学校、会社人間としての適応力を
失った者を「病人」や「障害者」とラベリングして収容しようとするのは病院というわけだ。

「学校化する社会」といわれるが、それは同時に「病院化する社会」や 「会社化する社会」をも意味した。
先生のお言葉③
Q:「体育会系」論は、「日本的集団論」の性格も帯びてくる。
この論文の切り口としては、集団論・組織論・社会的パーソナリティ論というものが考えられるが、どれにしよう?

A:集団論・組織論という観点からまずは進めていきたい。
先生からのお言葉②
先生からのお言葉:

「体育会系組織」の時代性(戦前、戦中、戦後)についてはどう考える?
例えば、OB会などが存在し、「体育会系組織」の成員の就職活動時に機能する場合、組織が時間的・空間的広がりを持つよね?



文化性(国や競技による違い)についてはどう考察する?


わたしの答え:んー難しい。時間が来たのでひとまず先送り…

先生からのお言葉①ーひとまずの問題
先生からいただいた指摘:

テーマは「体育会系組織」か、それとも「体育会系組織に適応していく個人」なのか?
まず、後者なら、①全くこれまで体育会系組織に属したことのなかった人間がある体育会系組織Xに入ってそういった行動様式を習得する場合と、②もともと体育会系組織に属しそういった行動様式を習得していた人間が、新たな「体育会系」組織Xに入って順応する場合と、双方の適応過程を区別する必要がある。

すなわち、具体的には、小学校ー中学校ー高校ー大学ー社会人という連続した社会化の過程の中で、①の時点をどこに定めるべきかということだ。


わたしの答え:

ひとまず本卒業論文のテーマは前者「体育会系組織」にする予定。







テーマ設定の動機
「体育会系人間の論理と行動様式」を研究テーマに定めたのは、就職活動を通じて「どうして体育会系人間はもてはやされるのか」「私はそうした人間たちの集団で支持を得る人間性、行動規範を身につけていないのではないか」と疑問を抱いたことがきっかけである。
そしてなおかつ、サークル活動を通じて、いわゆる「体育会系的なノリや人付き合い」が薄れてきている、好まれなくなってきているという思いを強くしたからである。飲み会の減少、上下関係の弱まりは、これまで3年のサークル活動のなかでつとに感じることである。

体育会系人間の定義が何なのかはまだわからない。わからないから研究したいのだ。
現時点での私の漠然としたイメージは、
①運動能力、身体能力が高い
②先輩ー後輩関係など上下関係への配慮を最重要視する
③理屈や議論を好まない。情を優先する
④理不尽な行いにも耐える
⑤笑顔がさわやか、明るく

と、こんな所だろうか。

記憶を辿ってみれば、体育会系人間というのは、いつでも集団の中で「勝ち組」に位置しているように思う。
小学校、中学校、高校…クラスの仲間集団で発言権、リーダー的存在となるのは、いつも運動ができる人間だった。運動が苦手だったり、成績がよかったりすると「オタク」扱いされ、「スクール・カースト」の最下層に押し込められる。
就職活動でも、運動部所属の男子は垂涎の的である。



上記①~⑤は、企業側が要請している人間像なのだろうか?
それは、日本社会やら、組織構造に適応しやすいからなのだろうか?
男と女や、国ごとによって違いはあるのだろうか?
学校でのいわゆる運動部の指導方針の原型(例えば「けつバット」など)は、どのようにして作られたのだろうか。軍事教練がやはり発祥なのだろうか?

とまあ、視点としてはこんな感じで行きたい。
ここまでは、あくまで仮説作りである。果たしてモデル図が描けるだけのものができるか?いや、きっと作る。
単なる私個人の印象論や社会観の吐露に終わらないよう、反省的に定義されるであろう各術語が依拠できる確固たる理論的基盤をしっかりと築きたい。

問題は仮説の検証方法である。
質的調査(インタビュー)か量的調査(アンケートを統計分析)かである。ある程度の知見の蓄積がないと構造化された調査票など作れないので、質的調査がメインになると思う・・・

しかし一番の課題は先行研究が果たしてあるかである。こんな研究してる人果たしているのだろうか?ドンピシャの文献もまだ見つけられていない。

ひとまず、第1歩なる参考文献としては、いわゆる「日本論」を中心に据えることになると思う。

以下の3冊を購入した。

『タテ社会の人間関係』(中根千枝、講談社現代新書、1967)
『適応の条件』(著者、出版社は上に同じ、1972)
『「世間」とは何か』(阿部謹也、講談社現代新書 1995)

これに『日本の思想』(丸山真男、岩波新書、1961)を加えた4冊をひとまず読んでみることにする。そのうえで、仮説を構築したい。

テンプレートデザインのように、道は果てしないし先はまだ見えないけど、頑張って車輪を走らせていこう。




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