卒業論文作成メモ
卒業論文作成にあたり、参考文献の読書記録及びメモとして作成した。 卒論テーマは「体育会系人間の論理と行動様式」の予定。
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体育会系と文化系①
体育会系と文化系という極端な理念型は、運動の得意性・非得意性に基づいて、人間を分類する思考から生まれた。この分類法のもっとも活用されているところが、小学生の生活世界である。例えば“野球をして遊ぶ”という状況を考えてみよう。このとき、最初にやらなければならない行為は、ふたつのチームを作ることである。そして、その普遍的な手順として知られている方法は、次のような物である。

まず運動ができる者が二人、どこからともなく自然発生的に出現して、それぞれのチームの代表者となる。二人はジャンケンをして、一人ずつ自分のチームに入れたいと望むメンバーを選んでいく。容易に想像できるように、運動ができる人間ほど早く選ばれ、最後に売れ残る人間は、運動神経に欠ける場合が多い。

本稿で体育会系と呼ばれる人間は、ここで言うチームの代表者及び上位選出者と同義である。一方で、文化系人間とは、売れ残り連中のことである。ちなみに、体育会系でも文化系でもない人間(大抵はそうである)は、そうである人々が体験する人生の難儀性からは無縁であるという意味で、幸運な人々と呼んで良いだろう。多くの人々がそれなりに幸運に生きていく。人生とは得てしてそんなものだろう。

ttp://tokyo.cool.ne.jp/abt/diary/diary004.htmlより
殴り書き③世間とは?
世間とは「社会」という意味ではなく単に「外(よそ)」のことで、「よそ者」というような意味でもあった。
世間という言葉は現代でもしばしば否定的な意味で使われることがある。
「世間の目を気にするな」だとかそういう意味で。
世間は「社会」という意味ではなく、外とか他とかいうような意味。
一つの共同体の外部を指す言葉。世間師は共同体に属さない人。

江戸時代はメディアもなくて、各藩にお国柄というものもあったし
使ってる言葉もかなり違っただろうから、統一的な常識みたいなのがなかったんだろうね。
ほとんどの人は自分の村以外のことは知らずに人生を終える。そして
世間師みたいな特殊な人たちだけが他所のことをいろいろしってると。

明治以降の富国政策から段々と日本人は統一的な価値観を共有するようになってし
まって、多数派が共有してる価値観からずれてる人のことを、言語の意味の変容も
あいまって「世間知らず」と馬鹿にするようになったんじゃないかな。
今はサラリーマンが多数派だから彼らの価値観が正当な社会常識だと言ったりすることになる。

営業・事務系サラリーマンは、普段、自営業者や製造業現場労働者の存在ことをあまり意識していないように思える。
就職する=営業・事務系サラリーマンになる という観念を当然のものとして生きてきたため、それ以外の労働者の世界は余り想像に登らない。
同じ勤め人同士でも、営業・事務系サラリーマンは、研究開発、製造現場、流通(輸送)現場の人たちに対しては、仲間意識がかなり薄い。
殴り書き②「会社化」「社会化」?
現代においては、新卒就職活動→新人研修→会社組織配属 というルートのみが「社会人化」される唯一の方策であるかのように思い込まされるようになっている。
このルートから外れたもの:家業ををそのまま継いだり、自営業を立ち上げたり、大学院に進学したりした人間は「社会人化」されていないとみなされるようになった。
主としてサラリーマンの側から。


企業研究をする、セミナー等に参加する、OB訪問をする→エントリーシートや履歴書を書く→何段にもわたる面接に望む→入社→研修という経験でのみ「社会人化される」という考えは強固だ。

これらの「儀式」を経たものは、「儀式」の経験のない人間に対して”隔意”や”優越感”を感じるようになってしまう。

殴り書き①いわゆる「社会」についてー「会社化」「社会化」?
学校、会社、病院。
現代人はこの三つの中間集団のいずれかにしか通うことを動機づけされる。
会社か学校に行かない者は病院に行くことが行動上条件づけられることになる。
このトライアングからはみ出す者は社会人以前の想定外の存在とされる。

主婦は例外だが、しかしその地位は社会的に従属的なものと見なされる。
そのことは同時に、家族集団が社会的に従属的な集団になったことを物語っている。
フェミニストが女の社会進出の権利を主張するのには時代の必然性がある。
家庭から上記の三つの中間集団が産業的に分化することによってそれは始まったのである。


正しく言うと、その三つのなかで会社のみが正規の「社会」とされている。
学校に所属する学生は「社会」人以前、病人が退院するときは「社会」復帰とされる。
会社に通わない者は、学生か病人(患者)である必要がある。
会社人間以前の者の収容を義務付けているのは学校、会社人間としての適応力を
失った者を「病人」や「障害者」とラベリングして収容しようとするのは病院というわけだ。

「学校化する社会」といわれるが、それは同時に「病院化する社会」や 「会社化する社会」をも意味した。




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